関東平野の西部をしめる武蔵野は、奈良時代のころ、人家もまれな雑木雑草がおい茂る原野であった。やがて帰化人が移住し、郡郷が開かれ、進んだ文化がもたらされた。このころ、筑紫、壱岐、対馬等の要略の守備に当った忠実な武士(防人)たちはこの地方の出身者がほとんどであった。平安時代の末期から鎌倉、南北朝時代にかけては各地に豪族が生まれた。その代表的なものが源頼朝であろう。鎌倉が政治の中心になると寺が建てられ、街道が整備されて、武蔵野の原野は開発されていった。戦国時代には、武蔵七党といわれる勇壮な武士たちが活躍する。寺々に残る板碑はこれら武士たちの供養塔である。武蔵野に用水がひかれ、田地が開墾されて、いたるところに集落が生まれるようになったのは江戸時代に入ってからである。その後積極的に開発されたが、明治になっても純農村にとどまった。国木田独歩は「武蔵野」で、「路といふ路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横切り、真直なること鉄道線路の如きかと思へぱ、東より進みて又東にかへるやうな迂回の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現はれ、又林にかくれ、野原の路のやうに能く遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径の想にもまして、武蔵の路にはいみじき実がある」といっているが、武蔵野は雑木林の美しい素朴な農村であった。ここには戦国武士のかずかずの物語を秘めて静かにたたずむ寺があった。昭和十五年、考古学者の柴田常恵師が中心になって、観世音を奉安する三十三の寺が札所に設定された。それ以来、武蔵野を愛する観音信者たちが盛んに巡拝したが、戦争の激化と終戦後の混乱で霊場は荒廃し、巡礼は減少した。また、交通の発達や東京が首都の性格を強めて人口が集中し、それが郊外へ進出するにおよんで、武蔵野の村々は住宅地となり、高層マンションなどできて都市化してしまった。だが現在、村が町になり、町が市となっても、寺の境内は武蔵野の面影が残り、幸いにも霊場は復興した。その後霊場会が結成されて、二度の総開帳が開催された。都会の雑踏から離れ、郊外に散在する寺々をめぐる機会がふたたび訪れたのである。